ロッキーの資産運用

20代から資産運用をしてセミリタイアを目指してみたブログです

【日記】2020/6/10(水)

2020 6/10

今日の朝はあまり覚えていない。そんなに目覚めが良くなかったと思う。とりあえず起きて歯を磨く。時計を見ると、8時過ぎだった。今日は比較的遅いかもしれない。昨日、寝るのが少し遅れたせいだろう。私の体がそれなりに睡眠時間を調節してくれているみたいだ。8:40から「多様な意見はなぜ正しいのか」byスコット・ペイジを読み始めた。第3章「解釈」だ。

まず解釈の形式的な説明といこう。解釈とは「物事の状況、問題、出来事から単語への写像である。1つの解釈の中では、1つの単語が数多くの物事を表現しうる」となる。これは観点と似ているように見えるが、観点とは違う。解釈は観点から生成される。観点に対して解釈は一対多の関係、つまり観点から解釈は無数に生まれる。それが多様性だ。

ここまで言ってあれだが、要は解釈とは「カテゴリー分け」にすぎない。カテゴリーなんていくらでも作れる。男女、子供と大人、老人と若者、20代と30代、それこそ書き出したらキリがないのだ。よってほとんどの解釈は意味を持たない。観点も解釈もヒューリスティックも、適切(効果的)でないと意味はない。当たり前だ。そして我々はこの意味のない解釈を常日頃、無意識的に必ず行っている。いや、行ってしまうし、行わないと生きていけない。

我々が行う解釈は2つある。1つはカテゴリー分け。もう1つは次元の無視だ。おそらく、投影解釈と呼ばれる、次元の無視を行うことが多い。単純化は重要だ。アインシュタインに言わせれば「ものごとはできるかぎりシンプルにすべきだ。しかし、シンプルすぎてもいけない。」だ。もうまさしくその通りだ。

 

第3章は思ったよりも短い章で、40分で読み終わった。ルーティンになりつつあるブログへの転載を行い、再び「多様な意見はなぜ正しいのか」を読んだ。第4章「予測モデル」では、多くのモデルの一つである、予測モデルについての説明を行っている。こちらも形式的な説明をすると、予測モデルとは「1つの解釈とそれによって作られる集合やカテゴリー1つ1つに対する予測を合わせたもの」となる。結果への写像ともいう。

予測モデル=解釈+予測。同じ解釈から、別の予測が生まれることもある。この予測も結局、思考の域からは離れない。予測モデルは思考を、ヒューリスティックは行動を意味する。

これで4つの枠組みの説明が終わるわけだが、釈然としない気持ちになるのはなぜなのか。時には、「我々は考えられる。だって考えているから」みたいなトートロジーを感じる(聞かされているような)ことがある。また時には、「あなたはこういう理屈で日本語を話している」と言われても「いや、そんなことを考えずに今もこうして日本語を話していますが?」みたいに思うことがある。例えばの話で。

なんというか、定義を厳密にして、ロジカルに説明しているが、どうも厳密すぎる。もちろん、著者はあえてそうしているし、逆にこうしないと多様性の説明はできない。要は、内容を現実世界に応用できる気がしないのだ。まぁそこはPARTⅡの役割だから、そう思うのはまだ早いのだが。

 

4章の後は続けて5章「物差しとツールボックス」も読んだ。4章も短かったからだ。5章は簡単に説明できる。人はIQテストみたいな単一の物差しではその優劣をつけられないということだ。それは1つの指標でしかない。要は、適材適所があると言っている。著者はそう言っていないが、私はそう”解釈”した。観点、ヒューリスティック、解釈、予測モデルが入ったツールボックスはひとそれぞれ違う。人種や育ち、経験が誰一人として同じことはあり得ないように、ツールボックスはその人自身であり同じになり得ない。違うものを1つの物差しで測る危険を認識しなければならないかもしれない。

ここまでがPARTⅠの「ツールボックスを分析する」となる。明日以降は私が知りたい内容が書かれた章に入れると思う。

 

読書は11:45に終わった。特に強烈な空腹もないので、少し休んでから(何をするか迷ったが)映画を見ることにした。今日は「チョコレートドーナツ」という映画を見た。(この映画を選ぶのにも迷ったものだ)。

まずあらすじをWikiより抜粋。(一部省略)

1979年のカリフォルニア。歌手を夢見ながら、ショーパブでパフォーマーとして日銭を稼ぎ暮らすルディは、客として訪れた検事局のポールと心を通わせ合い、交際を始める。

そんな折、ルディはアパートの隣の部屋に住むダウン症の少年マルコが、危険薬物を所持し逮捕された母親のために、施設へと隔離された事実を知る。繰り返されるマルコの脱走に心を痛めたルディは、ポールを説き伏せてマルコを引き取りともに暮らそうと提案する。同性愛の恋人同士であることを伏せ、法的手続きによりマルコの監護者となった二人は、本当の両親のようにマルコに愛情を注ぎ、三人で幸せな日々を送る。

だが周りの反応は冷淡であり、彼らをパーティに招いたポールの上司との衝突で事態は一気に悪化し、ふたりはマルコの養育者と認められず裁判沙汰となる。

 

映画を見ながら思ったが、この映画は「アイ・アム・サム」と非常に似ているので、「アイ・アム・サム」を見たことある人なら、ストーリーはそれをイメージしてくれればよい。こちらの方はゲイという次元がさらに加わるが。

ここからはネタバレを含めた感想を書く。

 

まず一行コメント「短い時間でよくまとまっているいい映画だった」

実話を基にしたというが、どれぐらいの脚色具合なのかが気になりはした。できすぎていると思ってしまったのだ。

では、もう少し感想を長く書いてみる。この映画では、歌手のルディが歌う歌が、すべてを現していると思った。序盤も中盤も終盤も(エンディングも)歌詞には重要な意味が込められており、ルディ、マルコ、などの心情を教えてくれる。それは、各個人を(我々が)探れる手掛かりにもなる。現に、原題は「Any Day Now」となっている。これは、劇中で歌うボブ・ディランの曲の歌詞からの引用らしい。それだけ、この映画にとっては歌が果たす役割は大きいのだ。(ちなみに、And Day Nowとは、「いつの日か」という意味になるらしい。参考はこちら

ここで必ず疑問に思うことがある。なぜ日本では「チョコレートドーナツ」にしたのか?という疑問だ。そしてそれは、キャッチコピーを見ればすぐに納得できた。

「僕たちは忘れない。ぽっかりと空いた心の穴が愛で満たされた日々―。」

これが日本語版のキャッチコピーで、考えた人のセンスが欲しくなる・・・。この題名変更は、まれに見るいい変更だと思う。私はわかりやすい方の釣り針に食いついた魚というわけだ。チョコレートドーナツの意味を(鑑賞後)考えたが、こんなことは思いつけなかった。

マルコにとって、「チョコレートドーナツ」は大好きな食べ物でもあり、愛情の塊でもあり、(病気を誘発する)害でもあったが、必要なものだった。いや、マルコだけではなく、愛情に飢えていたルディたちにとっても、「チョコレートドーナツ」は必要だった。チョコレートドーナツは3人で1つだったのだ。そう、"だった"のだ。

ルディたちはマルコの養育権を獲得する裁判に敗れてしまう。養育権が認められなかった理由は「同性愛を隠さない行為」をマルコに当たり前だと思わせることは"異常"だから。大した偏見である。そしてその偏見だけで、判事はマルコから「チョコレートドーナツ」を奪った。

マルコがチョコレートドーナツ以外は食べない描写が出てくる。これが意味するものは、すなわち「死」である。判決後、実の母親のもとに帰らされたマルコは、それ(チョコレートドーナツ以外)を口にはしなかった。マルコは再び、チョコレートドーナツを探しに家から離れ、ルディたちを探した挙句、橋の下で1人死んでしまう。劇中、マルコの最後のセリフは「That's not my home」。これは母親のもとに送り返されたときのセリフだが、それを誰も聞きはしなかった。(彼がダウン症だから)聞いてないふりをしたのか、聞こえなかったのかは知らない。

しかし、"正常"が絶対に正しいという価値観のもと、マルコを実の母親の元へ戻した行為が間違いとは言い切れない。マルコが"異常"だから、ルディが"異常"だから養育権を手にできないのはおかしいと言い切ることはできない。それでも、"ダウン症"、"ゲイ”という偏見だけで、マルコから親(ルディたち)を奪う行為を正当化したことは間違いだったのかもしれない。判事たちは、マルコにとっての親が実の母ではなく、ルディたちだったということを少なくとも認識していたはずだ。マルコが通う学校の先生の供述を聞いているのだから。残念ながら、理解されない側の人間の苦しみを理解することは、こちら側の人間には難しいのだ。

マルコは寝る前に話を聞くことが好きで、いつもハッピーエンドを望んでいた。一見、"殺された"マルコを見れば、この映画はバットエンドに見える。しかし、この映画はハッピーエンドだ。それはなぜか?ルディは歌手を夢見てその音声を録音したテープを各所に送っていた。その際、彼はおまじないとして、各テープにキスをしていた。マルコはそれを不思議に思い、ルディに尋ねる。理由を聞いたマルコは、1つだけテープにおまじないのキスをした。実際にそう書かれてはいないが、おそらく、その唯一のテープがある人物の目に留まり、ルディは歌手としての新たな道を切り開くことができた。そう、めでたしめでたしだ。

 

我々がこの映画に感動するのは、"ゲイ"のカップルと"ダウン症"の子供という偏見に合いやすい人たちが、やはり偏見に犯され、1人が死んでしまうからだろう。"偏見はよくない"なんて鑑賞後に思ったりするのだろう。しかし、それ自体が偏見なのである。つまり、"通常"のカップルが"通常"の子供の養育権を手にできなかった場合には、これほど感動しない。皮肉な話だと思う。しかし、偏見はなくならない。減らすことはできるが、なくなりはしない。昔と比べて偏見はなくなっている気はするが、それでもまだまだ根強い問題として残っていくだろう。

 

なんだか、まとまりに欠ける感想になってしまった。映画を見た後は「friends」のシャドーイング3話を、その後には聞き返しを1話。夜食(鮭、目玉焼き、納豆キムチ、パン、ヨーグルト、バナナ、ナッツ)をとって、漫画を読んで、風呂入って。まぁ似たようなルーチンをこなし、今日もまた終わろうとしている。

 

人生は使い方次第で、長くも短くもなる

これはセネカの言葉で、要は時間の活用が重要で、時間の長さは重要ではない。

人生を1日に置き換えても同じだ。今日の私は自分の人生を"生きた"と言える気がする。少なくとも嫌なことをしていない。

現実を見て、嫌なことをするのは、ある意味現実逃避なのかもしれない。